映画から見る、詩人が「無地ノート」を使う理由

 筆者は今まで、文章として記録を残す際には罫線か方眼入りのものを使ってきたが、ここにきて無地も良いかもしれないと思うようになった。きっかけを与えてくれたのは、映画「パターソン」である。

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無地のノートに文章を書く
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 横罫、方眼罫、無地――。ノートの罫内容は様々で、何を使うかは用途や個人の好みによって分かれる。筆者は今まで、文章として記録を残す際には罫線か方眼入りのものを使ってきたが、ここにきて無地も良いかもしれないと思うようになった。

 きっかけを与えてくれたのは、映画「パターソン」である。

 アメリカ・ニュージャージー州に実在するパターソンという街を舞台に、この街でバスの運転手をしている主人公が送る、一見代わり映えのない1週間の日々を淡々と描く(ちなみに主人公の名前もパターソンだ)。

 主人公は趣味で詩を書いている。身の周りの風景やバスの乗客たちの会話など、日常生活で出会ったことを題材にしてノートに書きつけるのだ。妻からは「コピーを取って出版するべき」と再三にわたって言われるほど、その分量は溜まっている。

 彼が詩作に使っているのが無地のノートだ。仕事前の運転席で思いつくままペンを走らせるシーンが劇中に何度も登場する(そしてことごとく同僚がやってきて中断させられる)。ノートには小さく几帳面な字で詩が綴られている。

 ノートの使い方は人それぞれだが、基本的には記録を取るのが横罫、考えの整理や図解を書くのには方眼罫が適していると言われている。無地のノートも後者の用途が主だが、こちらは方眼罫と違ってもっとラフに、自由に書くことが出来る。出てきたアイデアを纏めるのが方眼罫なら、0から生まれたアイデアを頭の中から紙へ書き出すために使うのが無地なのだ。

 主人公がノートに書いた詩は綺麗にまとまっているようでいて、よく見ると文字が訂正されている箇所もある。単なる誤字なのか、より良い言葉が浮かんだのかは定かではない。いずれにせよ言えるのは、彼は「ペンを動かす」のと同時に「考えて」もいるということだ。

 人によっては、発想の段階では罫線の存在を鬱陶しく思うこともあるだろう。実際、自由に図案などを描こうとすると、罫に阻まれている気がした経験が筆者にもある。

 詩の場合は文字だが、浮かんだイメージを掴み取って言葉として紙に並べるという意味では文章というよりも図を描くのに近い。自由な発想をするためにも、また思いついたものを即座に記すためにも、罫線があるものよりは真っ新な無地の方が向いているのかもしれない。

 ところで、主人公は罫線がないにも関わらず、まるで印字したように読み易い大きさと間隔で文字を並べていた。罫線があるかのように真っすぐで、羨ましいぐらい綺麗なノートだった。筆者が無地を使ってこなかった理由がまさにここにある。ただでさえ上手くない字が大きさもまちまちで上下に振れていては後から見直すこともしないだろうと思うのだ。

 主人公がなぜ、無地の中にきっちりと文章を書けるかは定かではない。だが、そこには彼の性格が大きく関係しているように思える。朝起きてから仕事に行き、毎日同じ場所で昼食を摂り、夕方帰宅。夜は犬の散歩がてらバーでビールを一杯だけ飲み、ベッドに入って眠る。月曜日から始まる物語の中で、彼は平日の間、ひたすらこの行動を繰り返す。

 だが、無考えに反復しているようには見えない。それは恐らく、彼が繰り返す日常の中から詩作に繋がるアイデアを常に探しているからだろう。一つ一つの細かい事にまで目を向けているから、同じように見える日々でもそれぞれを大切に、丁寧に生きられる。

 そうした「きちんとした」性格が、つい読み返したくなるほど整然としたノートにも現れているのかもしれない。

 真っ白なページで自由に発想し、几帳面なまでにきちんと記す。名もなき「詩人」の無地ノートからは、是非とも真似たい彼の生き方が垣間見える。

真っ新な自由の世界へ…詩人はどうして無地ノートを使うのか

《東十条王子》

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